木村敏『時間と自己』 メモ

基本情報

著者:木村敏

出版日:1982/11/22

出版社:中公新書

 

第一部「こととしての時間」

・"もの"と"こと"は別物

・・"もの"は見るものであり、"こと"は聞くものである。(物理的な見る聞くじゃないよ)

・・・"もの"は空間を満たしていて、我々の内部も外部も"もの"で満ちている。

"もの"はすべて客観であり、客観はすべて"もの"である

・・・"こと"は"もの"のように客観的に固定することができない。

われわれは「落ちる」ということを眼で見ることはできない。

"もの"が客観の側にあるのに対して"こと"は主観の側に、あるいは客観と主観のあいだにある

純粋な"こと"の状態は発生機の元素のように不安定であって、すぐに"もの"的な対象として安定しようとする傾向をそなえている。

・・・・"こと"は、不完全ながらも"ことば"によって語る以外に、表現・伝達することはできない。

"こと"は"ことば"によって表現される。しかし厳密にいえば、"ことば"に言い表された"こと"は純粋な"こと"ではない。

→映像作品でも"こと"を表現することは可能だと思うので疑問

・・・・・日本語の言(こと)と事(こと)は昔は同じものを指していたが、奈良・平安時代以後、言(こと)は「事(こと)のすべてではなく、ほんの端にすぎないもの」、すなわち言葉(ことのは、ことば)として区別されるようになった。

・・"もの"は空間において相互排除的である一方で、"こと"は同時に成立しうる。

"こと"は、"もの"のように内部や外部の空間を占めないが、私の"いま"を構成しているという意味において、私の"時間"を占めている。

(メモ1)

 以前5chかなんかで、「ワロタはその人のその時の感情を表していて、草は面白かったものに対して客観的な評価をしている」というような説を見たことがあって、どうもそれが上での話と関係があるような気がする。これらの言葉の用法には当然 個人差があることは承知の上で、思ったことを書き留めておく。

 要するに、ワロタ・www・(笑)は「面白い"こと"」に対する言葉で、一方、草は「面白い"もの"」に対する言葉という整理ができないか。ワロタ時、その人は本当に笑っているとして、ワロタは笑いと自己が一体となっている様を表していて、そこに内部外部という境界は存在しない。ワロてから時を経て、自分が何によってワロタのか理解した時、すなわち、自分をワロわせた"もの"を外部に置くことができた時、それは草と表現されるものになる。

 曰く、"こと"は非常に不安定なものであり、"もの"化によって安定しようとする傾向があるらしい。つまり、面白さを"もの"化する単語である草が広く使われるようになったのはある意味必然といえる……?"こと"と"もの"という考え方は、草がネット界隈を席巻したことへの一説明にもなるかもしれない。

(メモ2)

 "こと"は不安定であり、その人によって見られると忽ち"もの"になってしまう。ここでもう1つ思い出すのが、量子。量子力学は完全に門外漢なので、あまり突っ込んだ話をせずに、撫でる程度に。

 量子には不思議な性質があり、波動関数によって表されていた量子の状態が、観測によってある固有の状態に収縮する(らしい)。観測しない限り、その量子の状態は確率分布として与えられる。しかし、観測されると分布が収縮し、安定な固有状態に落ち着く。波動関数による確率分布(こと)は、観測されることにより、ある固有状態(もの)に収縮する。──だから何?

波動関数の収縮 - Wikipedia

 もう1つ、量子力学で関連付けられるものとして、量子鍵配送が挙げられる。量子鍵配送とは、盗聴者が光子の状態(共通鍵の具材)を観測すると、光子の状態が変化するという性質を活かせば、送信者と受信者で定期的に情報を照合することで盗聴を容易に検知できるよね、というアイデアに基づく手法。情報理論的安全性がある、とてもロマンのある方式。これも、言うなれば、こととしての鍵を共有する手法、と言えるでしょう。従来の鍵共有プロトコルは全て、ものとしての鍵を共有していた──と。

 この手の存在論量子力学を対比した論なぞ、世の中にごまんと有りそうなので、独りよがりな考えを垂れ流すのはここまでにしておく。

 

 

・"もの"と"こと"は全く相容れないわけではなく、共生関係が成立しうる。

・・"こと"は"もの"を介して表現される。

"もの"が"こと"を表現しなかったならば、"こと"は"ある"とさえいえないだろう。"こと"は"もの"との共生関係においてのみ現実の世界に存在することができる。

・・・"こと"の伝達手段である"ことば"は"もの"である。

この共生関係を最大限に利用しているのが「詩」と呼ばれる言語芸術だろう。(中略)"もの"について語りながら、"もの"についての情報の伝達を目的とはせず、"こと"の世界を鮮明に表現しようとしているという点である。

→「古池や 蛙飛び込む 水の音」が"もの"ではなく"こと"を表現したいのは明白

・・"もの"の背後に"こと"を感じ取ることができる。(場所がおかしい)

・・・人間は表情という"もの"から、他人の内心("こと")を読み取っている

この机が狭すぎるというのもひとつの"こと"だし、この小さい机がその上で書かれたいくつかの論文とともに私の歴史に組み込まれているというのもひとつの"こと"である。

・・・しかし、離人症では"こと"的感覚が消失する

患者はたとえば、(中略)ものの大きさや形は変わっていないのに、それが実在しているということが感じられない(中略)というような体験を語ってくれる。

離人症患者はほとんど異口同音に「自分がなくなった」、「自分ということがわからない」と訴えるけれども、このことは、われわれが「自分」とか「自己」とか呼んでいるものが実は"もの"ではなくて、自分という"こと"によって成り立っているのだということをはっきり物語っている。

(メモ3)

ものとことは、名詞と名詞以外という説明ではだめなのか。名詞は見ることができるし、動詞は主体というもの、形容詞は形容されるものが必要不可欠である──まさにここでいうものとことに対応してそうではあるけれど、どうなんでしょう。後に出てくる主語的自己と述語的自己はこれと非常に近い気がする。

 

(メモ4)

 詩はものによってことを表す典型であるという話は感心した。詩の創作活動は、無用なものを削り落とし、表現したいことの核を的確に貫くようにものを設計する作業、と言うこともできそう。

 あるものによってどのようなことが想起されるかは、文化や常識に依存するところであって、決して普遍的でない。そしてそれは、新しい文化を生み出すという詩の潜在的能力を意味しているかもしれない。冷えたチキンなんかは、そういう点で傑作だったなぁと今になって思い出す。

 

・時間の本質は"こと"としての時間である

物理学的な時間計測とは別種の、もう一つの時計の読みかたが間違いなく存在する。

時間は単純にわれわれに対して外部から与えられているような"もの"ではない。それは私自身がそこに立ち会っているいまが以前と以後の両方向に拡がっているという"こと"であり、私自身が"いまここにある"という現実から切り離すことのできない、"こと"的なありかたをもった現象である。

・・我々が通常、時間だと思っているのは"もの"としての時間である

・・時計の本質は、いまの時刻という"もの"を知ることではなく、「まだどれだけ」「もうどれだけ」という"こと"を感じること。

「まだどれだけ」と「もうどれだけ」の時間感覚は、二つの数値のあいだの演算によって与えられる時間の量にはけっして還元しつくされない、もっと生命的で切実な心の動きである。

ベルグソンは、通常の時間観念は空間的に表象された時間観念であって、真の時間、つまり数量化不可能な「持続」とは本性的に異なったものであると考えた。

「まったく純粋な持続とは自我が生きることに身をまかせ、現在の状態とそれに先行する諸状態とのあいだに境界を設けることをさしひかえる場合に、意識の諸状態がとる形態である」

(メモ5)

 ベルクソンの純粋持続の話は初めて知った。時間があれば、ベルクソンについても勉強しておきたい。

(メモ6)

 定量的でない時間現象というと、走馬灯とかが思いつくけど、あれはなんなんでしょう。自分も昔1mくらいの高さから落ちて頭を撃った時に、異常に遅い時間経過を体験した。でも、あれは純粋持続みたいな境界を設けない云々の話ではなく、むしろ逆の事象にも思う。落ちる瞬間って、むしろ客観視し過ぎてるというか、状況に溶け込まずに冷静さを徹底している時間だと思う。

 

 

 

第二部「時間と精神病理」

・自己の自己性は二つの互いに異なった私のあいだの同一としてのみ成立する

・・私には、主語的自己と述語的自己がある。

自己の述語作用がそのつど自己自身を認知するという、元来いかなる根拠によっても保障されていない、したがってまことに当てにならない僥倖によってしか、自己の主語的同一性、自己の既存性は存続し得ない

・・・主語的自己は「私は......である」の主語になりうる私のこと

私が私と呼びうるものとしては、まず第一に、私がこれまでそれであり続けてきたもの、これまでつねに私とみなし続けてきたものがある。

・・・述語的自己は「......は私である」と記述される私のこと

・・・主語的自己と述語的自己は最初から統合されているわけではない

・・・・述語的自己が主語的自己を反復的に生み出してくれるわけではないし、主語的自己が元々存在しているわけでもない

私の述語的な認知がなされなかったならば、主語的な私は私の同一性としては成立し得ないのである。

述語作用は、自らの反復的な遂行の軌跡として自分の手で樹立した主語的同一性の側から明確な方向を与えられないかぎり、主語的同一性を継続するような仕方で私を産出することができない。つまり主語的な自己と自己の述語作用とは、互いに一方が他方の成立の根拠となっているような関係のうちにある。(中略)キルケゴールが『死に至る病』をそれによって書き始めた、「自己とは、関係が関係それ自身に関係するような関係のことである」という有名ではあるが難解な言葉の意味するところは、他ならぬこの事態にあるのだろう。

(メモ7)

 ここの2つの自己の不統合が社会適合性に影響を与えることは明らかだと思われる。過去の自分の言動に真の意味で責任を持つことが難しいから。

(メモ8)

 演劇やコントでキャラクターを演じるときに、恥ずかしさを捨てるために持ちがちな意識、「これは自分ではない」という意識は本書でいう自己の不統合とは別物と考えたほうがよさそう。その場合、自己のために他者を演じる自己を自覚しているのであって、他者化した自己を自覚している訳ではない。その他者は自己肯定的であって、反自己的ではない。

 

・時間をどのように捉えるかがその人の性質に大きな影響を与えていて、分裂病特有のアンテ・フェストゥム意識と、鬱病特有のポスト・フェストゥム意識がある

われわれは時間を過去・現在・未来の三つの部分からなるすべての人に共通な単純な一本の直線のようには考えないで、いまの自分がいままでの自分や今からの自分に関して、自分自身とどのように関わり、自分自身をどのように見出しているかということの、一言で言えば自己の自己自身との関係の、ひとりひとりにおいて異なったありからとして捉えようしている

正常人の日常性を構成している二つの互いに相容れない意味方向──未知なる未来における自己の可能性の追求と、既知の慣習や経験への保守的な埋没──が、それぞれ両者間の均衡を破った極端な形で突出し、そのために日常的な常識の範囲を越えた非日常・非常識の狂気に立ち至ったのが、この二つの病態だとみなしてもよいだろう。

・・分裂病患者は未来を先取りしていて、今にじっと逗留することができない(アンテ・フェストゥム意識)

分裂病者が未来を先取りしているという場合の未来とは、文字通り未だ来ないことの意味なのであって、もの的な過去・現在・未来とは別の意味地平に属している

分裂病者は(厨着)その事態がまだ現前していないということに恐怖と憧憬を抱くのだと言うべきだろう。すでに現前している事態に対しては、それが更なる未来の兆候として読まれるのではないかぎり、分裂病者はむしろ驚くべき無関心さを示す。

・・・未知なるものへの親和性は、遠さへの親和性として現れることもある

分裂病者は一般に、身近で具体的・実際的な事柄に対してよりも、現実を離れた空想的・観念的な世界を好む。(中略)このような遠さへの親和性は(中略)彼らの現在そのものが、すでに未知性という最大限の遠さによって占められているからなのだろう

一般論的に言って、分裂病親和的な人は数学者や理論物理学者、哲学者や詩人、革命理論家などに多く、実用的な科学の研究者、実務的な才能のある人、実業家や保守的な政治家などには少ないと言えるだろう。

・・分裂病の症例に共通して見られることは、「患者の自己が確実な自己性を有していない」という点。

・・・具体的には、被影響体験とつつぬけ体験の二つが挙げられる。

(前略)患者の内面そのものが最初から他者性をおび、患者の意志や感情や思考がそのまま他者の心の動きとして体験されるのだ

(前略)自分の内面的な思考や感情や意志の動きが、言語や表情などによって伝達されなくてもひとりでに周囲の他者に伝わってしまい、内心の秘密が保てないという体験である

他者は外部から患者の内面をうかがっているのではない。むしろ患者の自己が、そのもっとも中心的な部分において、つまりそこで自己が自己自身でありうるはずの場所において、その自己性を奪われ、他者化されているのである。患者は自己を自己として自覚した上で、これに対する他者の干渉を訴えているのではない。患者は、すでにそのつど他者性の手に帰したものとしての自己を自覚しているのである

・・分裂病者とそうでない者の違いは、今までの自己や今の自己を自己の根拠とできるか否かである

分裂病者のアンテ・フェストゥム的未来が真の実存的自己実現に結実し得ないのは、それが将来性を失った未来にとどまるからだ、といってもよいだろう

分裂病性の事態においては、現存在はそのつど自己自身へと到来するかわりに、自己の他者性へと到来するのであり、自己を実現するかわりに自己の他者性を実現しているのだと言ってよい。(中略)いままでの自己同一性の歴史は、分裂病者にとってはよそよそしいもの、他者性をおびたものとして経験されている。

・・・分裂病者は未来を死として見ている(要検討)

分裂病者のアンテ・フェストゥム意識の中で出現してくる他者性は、それが既知の他者経験にとって絶対的に未知なるものであるという意味で、自己性にとって徹底徹尾否定的・破壊的な作用しか及ぼさない。それは非自己であるだけにはとどまらず、反自己性の原理ですらある。

分裂病者のアンテ・フェストゥム的な絶望の中に影を落としている他者性と言ったのは、実はわれわれの生を徹底的に無化する死の影ではなかったのだろうか。

未来が、ハイデッガーのいう将来の資格で、つまり自己自身への到来として、自己の存在可能性を構成する契機となりうるのは、(中略)自己の述語作用が反復的に自己自身のもとに立ち戻って自己を認知し続けてきたという自己の確実な事実性が、主語的自己の歴史的な同一性として保持され、そのつどの述語的自己生成の背後にある反自己的な死の原理が、この同一性の歴史によって、いわばあらかじめ保護膜を被せられて遮光されている場合に限られるのである。

未来が未知なるものの、極限的には死そのものの代名詞として、憧憬と恐怖を誘うということは、分裂病者のみでなく、有限な個別的生命を行きている人間のすべてについて語りうることなのである。

(メモ9)

 半分自己紹介を読んでいる気分になった。未知なるものに対する異常なまでの恐怖・敬遠、その対象が目前に現れたときの異常なほど冷静さ。未来のあらゆる可能性が一様に存在するように感じるが故に、過去・今の自分と未来の自分につながりを見い出せない。未来の力が自己の無力さを引き立てる。畏敬の対象としての未来。

(メモ10)

 精神分裂病の分裂の意味するところは、単に人格が2つ以上に別れてしまっているということではなく、いままでの自己・いまの自己・これからの自己が同一の自己として捉えられないということだと、自分の中で整理した。

・・鬱病者は未来を今の延長として見ている(ポスト・フェストゥム意識)

・・鬱病者にとって、過去は現在完了的に存在している

鬱病を誘発する状況というのは、現在完了の時制を構成しているような所有の契機が喪失したときだと言うことができる

・・鬱病者は役割同一性が自我同一性の肩代わりをしているといえる

役割同一性とは要するに、私にとって特定の立場にいる他者から、私がかくかくしかじかの役割行動を果たすことを期待され、私がその期待にこたえて遂行する役割行動に応じて当の他者から認知されることによって、はじめて成立するような自己のありかたである

彼らの存在を脅かすのは役割期待者としての個々の具体的他者や共同体全体なのであって、自己性に対する否定的原理としての他者性ではない

(メモ11)

 分裂病を理解できて鬱病を理解できない精神科医もいれば、その逆もいると本書にあったが、自分は前者のタイプなんだろうなと読んでいて思った。むしろ、シニフィアンとしての自分を嫌い、何にも染まらない自分を目指していた節はある。この意識は自己研鑽につながることもある反面、確固たるアイデンティティを持てないという大きなデメリットもある。

 

・アンテ・フェストゥム意識とポスト・フェストゥム意識とはさらに異なる時間構造として「現在への密着ないしは永遠の現在の現前」を特徴とする、イントラ・フェストゥム意識というものも考えられる。

イントラ・フェストゥム的な事態は、アンテ・フェストゥム的およびポスト・フェストゥム的な両方の事態と、それに垂直な量的規定として関わっている。

・・癇癪と躁病がイントラ・フェストゥム意識と関係があるといえる。

・・・癇癪には睡眠癇癪と覚醒癇癪があり、それぞれの患者には異なる特徴が見られる(ヤンツによる研究)が、どちらも「現在が圧倒的な優位を占めている」という点で共通している。

・・・・入眠後間もなく、もしくは、覚醒直前に発作を起こす場合が睡眠癇癪。几帳面で、秩序立った性格。一方、朝方の覚醒後だいたい二時間以内に発作が起こる場合が覚醒癇癪。無計画で情緒不安定だが他意のない素直な性格。

・・・ドストエフスキーは癇癪を患っていたため、作中でも癇癪に関する描写が多く見られる。

一般に、ドストエフスキーの描く人物はいずれも他人に対して、ときには自分の生命を脅かすような危険な相手に対してすら不思議に無警戒で、分裂病親和者に見られるような他者の未知性に対する恐怖感は希薄である。また、メランコリー親和者に特徴的な、既成の型の中での役割的対人関係も、彼の作品のどこを探しても見当たらない。彼の描く対人関係は、すべて現在眼の前にいる人との現在の瞬間における直接的な深い連帯感によって支えられている。

・・・躁病は鬱病の対称となるものではなく、時間に対する意識に対して特別な意味合いを持つものである。

・・・・鬱病者が遠ざける死とは、生と対になるものである一方、躁病者が接近する死とは、生を生み出す死である。

われわれが躁鬱病と呼ぶもの、それはこの普遍的な生と死の原理の──すなわち、死が生の中に深く食い込んでいるというこの普遍的な原理の──病的増大ないし病的発現にほかならない。(中略)生に内在する生と死のアンチノミーが、躁鬱病においてはドラスティックに表現されている。(ビンスヴァンガ―)

「その日その日、皆と仲良くやって行ければ最高なのです」と、ある患者が語っている平凡な言葉が、躁病者の世界をそのまま物語っている。

(メモ12)

 ここら辺の話は村上春樹の『ノルウェイの森』を思い出す。有名な一節、「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」──言われてみれば、村上春樹の作品って全般的にイントラ・フェストゥム的なのかもしれない......?そうだとすると、それこそが自分の抱いていた違和感の正体なんだと思う(裏返すと、自分はあまりイントラ・フェストゥム的意識を持っていないということになる)。ついでに言うと、ドストエフスキーの作品も個人的には長ったらしさが際立っていてあまり好きではないのも、それが由来していたのかもしれない。今後はイントラ・フェストゥム意識というものを念頭に置いて読むことで今までとは違った見方ができるかもしれない。

(メモ13)

 死んでいる人間は生を意識することはない時点で、認識において生と死の対称性は端から成立していない。

・・イントラ・フェストゥム的意識は独立した方向性を持っていて、健常者、鬱病分裂病者に関わらず、多かれ少なかれこの意識を有している、非常に原始的な意識である。

従来から一般に「狂気」、「非理性」と呼ばれているものは、実は人間存在に普遍的なこのイントラ・フェストゥム的契機のことを指しているのではないか、と私は思う。分裂病鬱病も、それがもしイントラ・フェストゥム的契機を交えない純粋なアンテ・フェストゥム、ポスト・フェストゥムの構造だけで現れた場合には、当人はそれによっていかに苦しんでも、周囲の人から狂気とみなされるとこはほとんどないだろう。

(前略)比較文化精神医学は、アフリカ原住民における癇癪の罹患率が異常な高頻度にのぼることを報告している。(中略)ランボの調査によると、都市地域に住んで文字を知っているアフリカ人には、むしろ西欧人の分裂病に近い病像が出現するという。(中略)「文字を知っている」アフリカ人にのみ西欧型の分裂病像が見られるということは、彼らが文字とともに自己の個別性を知り、未来の未知性を知ったからではないのだろうか。

(メモ14)

 『ノルウェイの森』について、村上春樹は「セックスと死のことしか書いていない」と述べたらしい(?)けども、まさしくイントラ・フェストゥム的意識が原始的であることと合致している。

 

第三部「時間と自己──結びにかえて」

・時間と自己という二つの概念は、同時に生まれるものである。

・・言語によって"こと"を表現することと、意識を持つことは同義である。

われわれの意識それ自体が、すでに徹頭徹尾言語的な構造を持っている。なにかを意識することは、それを言葉で表現することと権利上完全に等価である。

"こと"は言語化に伴う汚染を蒙ることなしには、"こと"として意識され得ないのだと言うべきなのかもしれない。

・・"こと"は対自的な構造を有していて、それいにより自己が浮上してくる。

人間的意識において、ことが対自構造を持った自己として現れなくてはならないということは、人間存在の、そして人間的意識の有限性の兆候である。

・・自己の誕生とともに時間が誕生し、分裂病鬱病といった病態が生じるようになった。

時間が流れ始め、人は個我としての自己を意識しなくてはならなくなる。(中略)自己が自己自身でありうるためには、自己はそのつどみずから自己自身にならねばならなくなる。自己は、自己自身となりうつ可能性を、そのつどの未来から、そのつど出会う他者とのあいだから獲得しなくてはならなくなる。いままでに自己であった自己は、痕跡としていまの根底にまで伸びてきてはいるだろう。しかし、この痕跡がいまもなお他ならぬ自己の痕跡でありうるためには、自己はそのつどのいまにおいて新たに自己の相において自己自身へと現前し続けなくてはならない。そして、未知のいまからが自己の相のもとにいまの現前へと到来するという保証は、本来どこにもないのである。

 この保証のなさが、分裂病者に課されたいっさいの苦痛の根源だといってもよいだろう。分裂病という精神病理的事態の成立と、未来という時間態様の発生と、個別的自己の自覚とは、すべて同時的で等根源的な現象である。(中略)ハイデガーデリダの見ている時間は、分裂病の時代の時間にほかならない。

人間の原始的自然状態からの疎外の過程は、個我の意識の成立によって完結するものではない。(中略)共同体内の役割同一性が、個別的自己の自己性に代わって、個人の意識や行動の主導的原理となる。(中略)単極型鬱病という明確に定義可能な病的事態とその本質構造である旧状回復不能感とが、いまの共同体的・役割的な制度化に伴って成立可能になったのである。(中略)数量的な時間は、鬱病時代の申し子であると言えるのではないだろうか。