『寝ながら学べる構造主義』
基本情報
著者:内田樹
出版日:2002/6/20
出版社:文春新書
・今の時代は思想史的にはポスト構造主義の時代とされている
・・ポスト〇〇主義というのは、〇〇主義が去ったという意味ではなく、〇〇主義的考え方が常識となり、〇〇主義を基に思考が展開されるようになったという意味である
・・ポスト〇〇主義と終焉は、〇〇主義が破綻した場合だけでなく、単に〇〇主義が飽きられた場合にも起こりうる
・・今は常識とされている「視点が違えば物事の見方は違うものとなるし、どの見方が正しいかについて論理的に基礎付けることはできない」という考え方は、1960年代より前は決して常識ではなかった
「フランスとアルジェリアの言い分のいずれが正しいかは、私には判定できない。どちらにも一理あるし、どちらも間違っている……」と正直に語ったフランス知識人は、私の知る限り、アルベール・カミュただ1人でした。そしてカミュはこの時ほとんど孤立無援だったのです。
・構造主義以前の重要人物として、マルクス、フロイト、ニーチェの3名が挙げられる。3人の主張は「人間の思考が客観的なものではなく、意識下にない何かに影響を受けているものである」という点で共通している
・・マルクスは、その人がどの「階級」に属するかによって、ものの見え方が変わるのだと主張した(階級意識)
・・マルクスは、人間がなにものであるかは、その人間の作り出したものによって決まると主張した(作り出す活動=労働)
自己同一性を確定した主体がまずあって、それが次々と他の人々と関係しつつ「自己実現する」のではありません。ネットワークの中に投げ込まれたものが、そこで「作り出した」意味や価値によって、おのれが誰であるかを回顧的に知る。主体性の起源は、主体の「存在」にではなく、主体の「行動」のうちにある。これが構造主義のいちばんの根本にあり、すべての構造主義者に共有されている考え方です。それは見たとおり、ヘーゲルとマルクスから二十世紀の思考が継承したものなのです。
・・フロイトは、人間の思考は人が意識することができない無意識の領域が支配していると主張した
・・・抑圧において、人間は「自分が何を意識かしたがっていない」という事実を意識することができない
・・ニーチェは、人間の思考は大衆社会の規範に縛られているという主張をした
・・・大衆社会における畜群の行動準則は「他の人と同じように振る舞う」ということただ一つであり、功利主義、自然契約における善悪論と比較し倒錯的なものとなっている。
・・・自分の外側にいかなる参照項も持たない自立者「貴族」、そして貴族の究極体が「超人」である
・ソシュールが構造主義をはじめた人である(思想史における一般的解釈)
・・ソシュールが発見したことの1つは、言語活動はすでに存在するものに名を与える作業(名称目録的言語観)ではなく、連続的な世界を切り分けていく作業なのだということ
・ソシュール以後、構造主義を深めていった代表的な人物は、ミシェル・フーコー、ロラン・バルト、レヴィ=ストロース、ジャック・ラカンの4名である
・・フーコーは、歴史は現在に至るまで進化してきた、歴史は現在を目指して進む物語であるという見方(人間主義)を否定した
歴史の流れが「いま・ここ・私」へ至ったのは、さまざまな歴史的条件が予定調和的に総合されていったというより、さまざまな可能性が排除されて、むしをどんどん痩せ細ってきたプロセスではないのか、というのがフーコーの根源的な問いかけです。
・・バルトはソシュールの論理を引き継ぎ、拡張した。
文学テクスト、映画、舞踊、宗教儀式、裁判、ファッション、自動車、モード、広告、音楽、料理、スポーツ......およそ目に触れる限りの文化現象を「記号」として読み解いたのがロラン・バルトです。
・・・バルトは、言語には「ラング」と「スティル」に加えて、「エクリチュール」という2つの不可視の規則があると考えた
・・・・ラング(langue)は思考に用いる言語体系(日本語、英語 etc.)
・・・・スティル(style)はその人の話し方、選ぶ言葉の癖といったもの
・・・・エクリチュール(écriture)は「ことばづかい」
スティルはあくまで個人的な好みですが、エクリチュールは、集団的に選択され、実践される「好み」です
「エクリチュールとは、書き手が己の語法の『自然』を位置づけるべき社会的な場を選び取ることである」(バルト)
・・・・バルトが無垢なエクリチュールを追い求め、たどり着いたのは俳句であった
ヨーロッパの言語は(中略)対象を裸にして、すべてを露出させ、意味で充満させることをそれはめざします。しかし、語義を十全に解き明かすというヨーロッパ的な解釈にこだわる限り、俳句の風雅に触れることはできないでしょう。むしろ俳句は解釈を自制するものの前にのみその真の美的価値を開示する、とバルトは考えます。
・・レヴィ=ストロースは文化人類学を中心として思想を展開した。
・・・レヴィ=ストロースは、『野生の思考』でサルトルの『弁証法的理性批判』を痛烈に批判した(実存主義から構造主義へと時代が移っていった)
・・・レヴィ=ストロースは、社会における親族制度は2ビットで表されるという仮説をたてた(親密な関係にあるのは、息子ー父 or 母方の叔父、妻ー夫 or 妻の兄弟)。
私たちは何らかの人間的感情や、合理的判断に基づいて社会構造を作り出しているのではありません。社会構造は、私たちの人間的感情や人間的論理に先立って、すでにそこにあり、むしろそれは私たちの感情のかたちや論理の文法を事後的に構成しているのです。ですから、私たちが生得的な「自然さ」や「合理性」に基づいて、社会構造の起源や意味を探っても、決してそこにたどり着くことはできないのです。
・・・加えて、社会システムは常に変化していくように構造化されていて、そのシステムとして「財貨サービスの交換(経済活動)」、「メッセージの交換(言語活動)」、「女の交換(親族制度)」があると考えた。
・・ジャック・ラカンはフロイトの精神分析を引き継ぎ、鏡像段階や父の名について業績を残した。
ラカンの考え方によれば、人間はその人生で二度大きな「詐術」を経験することによって「正常な大人」になります。一度目は鏡像段階において、「私ではないもの」を「私」だと思い込むことによって「私」を基礎づけること。二度目はエディプスのいて、おのれの無力と無能を「父」による威嚇的介入の結果として「説明」することである。
みもふたもない言い方をすれば、「正常な大人」あるいは「人間」とは、この二度の自己欺瞞をうまくやりおおせたものの別名です
(おまけ)
ここで登場した人物の年代表
Karl Marx 1818-1883
Friedrich Wilhelm Nietzsche 1844-1900
Sigmund Freud 1856-1939
Ferdinand de Saussure 1857-1913
Jacques-Marie-Émile Lacan 1901-1981
Jean-Paul Charles Aymard Sartre 1905-1980
Claude Lévi-Strauss 1908-2009
Roland Barthes 1915-1980
Michel Foucault 1926-1984
木村敏『時間と自己』 メモ
基本情報
著者:木村敏
出版日:1982/11/22
出版社:中公新書
第一部「こととしての時間」
・"もの"と"こと"は別物
・・"もの"は見るものであり、"こと"は聞くものである。(物理的な見る聞くじゃないよ)
・・・"もの"は空間を満たしていて、我々の内部も外部も"もの"で満ちている。
"もの"はすべて客観であり、客観はすべて"もの"である
・・・"こと"は"もの"のように客観的に固定することができない。
われわれは「落ちる」ということを眼で見ることはできない。
"もの"が客観の側にあるのに対して"こと"は主観の側に、あるいは客観と主観のあいだにある
純粋な"こと"の状態は発生機の元素のように不安定であって、すぐに"もの"的な対象として安定しようとする傾向をそなえている。
・・・・"こと"は、不完全ながらも"ことば"によって語る以外に、表現・伝達することはできない。
"こと"は"ことば"によって表現される。しかし厳密にいえば、"ことば"に言い表された"こと"は純粋な"こと"ではない。
→映像作品でも"こと"を表現することは可能だと思うので疑問
・・・・・日本語の言(こと)と事(こと)は昔は同じものを指していたが、奈良・平安時代以後、言(こと)は「事(こと)のすべてではなく、ほんの端にすぎないもの」、すなわち言葉(ことのは、ことば)として区別されるようになった。
・・"もの"は空間において相互排除的である一方で、"こと"は同時に成立しうる。
"こと"は、"もの"のように内部や外部の空間を占めないが、私の"いま"を構成しているという意味において、私の"時間"を占めている。
(メモ1)
以前5chかなんかで、「ワロタはその人のその時の感情を表していて、草は面白かったものに対して客観的な評価をしている」というような説を見たことがあって、どうもそれが上での話と関係があるような気がする。これらの言葉の用法には当然 個人差があることは承知の上で、思ったことを書き留めておく。
要するに、ワロタ・www・(笑)は「面白い"こと"」に対する言葉で、一方、草は「面白い"もの"」に対する言葉という整理ができないか。ワロタ時、その人は本当に笑っているとして、ワロタは笑いと自己が一体となっている様を表していて、そこに内部外部という境界は存在しない。ワロてから時を経て、自分が何によってワロタのか理解した時、すなわち、自分をワロわせた"もの"を外部に置くことができた時、それは草と表現されるものになる。
曰く、"こと"は非常に不安定なものであり、"もの"化によって安定しようとする傾向があるらしい。つまり、面白さを"もの"化する単語である草が広く使われるようになったのはある意味必然といえる……?"こと"と"もの"という考え方は、草がネット界隈を席巻したことへの一説明にもなるかもしれない。
(メモ2)
"こと"は不安定であり、その人によって見られると忽ち"もの"になってしまう。ここでもう1つ思い出すのが、量子。量子力学は完全に門外漢なので、あまり突っ込んだ話をせずに、撫でる程度に。
量子には不思議な性質があり、波動関数によって表されていた量子の状態が、観測によってある固有の状態に収縮する(らしい)。観測しない限り、その量子の状態は確率分布として与えられる。しかし、観測されると分布が収縮し、安定な固有状態に落ち着く。波動関数による確率分布(こと)は、観測されることにより、ある固有状態(もの)に収縮する。──だから何?
もう1つ、量子力学で関連付けられるものとして、量子鍵配送が挙げられる。量子鍵配送とは、盗聴者が光子の状態(共通鍵の具材)を観測すると、光子の状態が変化するという性質を活かせば、送信者と受信者で定期的に情報を照合することで盗聴を容易に検知できるよね、というアイデアに基づく手法。情報理論的安全性がある、とてもロマンのある方式。これも、言うなれば、こととしての鍵を共有する手法、と言えるでしょう。従来の鍵共有プロトコルは全て、ものとしての鍵を共有していた──と。
この手の存在論と量子力学を対比した論なぞ、世の中にごまんと有りそうなので、独りよがりな考えを垂れ流すのはここまでにしておく。
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